幼少期から現在に至るまでと
政治への興味・関心
はじめに
私は、真の政治家となるために必要不可欠な手段として弁護士を目指しました。弁護士を目指す人は弁護士になることを目的としていることも多いため、私のような志望動機は少々珍しいのかもしれません。幼少期から現在に至るまでの生い立ちを記することで、このような選択をした私の人となりを少しでもみなさまにお伝えできればと思います。
弁護士・政治家 大薄 裕也
(通称:大すき ゆうや)
01
幼少期(市原マリア・インマクラダ幼稚園)
九州出身の両親(父:製薬会社の研究職、母:薬剤師)と歳の近い妹の4人家族で、千葉県市原市にて幼少期を過ごしました。幼稚園の頃の記憶はあまりないですが、自宅から園まで徒歩で通っていたため、とにかく自宅と園の往復が大変だったことを覚えています。
九州出身の両親(父:製薬会社の研究職、母:薬剤師)と歳の近い妹の4人家族で、千葉県市原市にて幼少期を過ごしました。幼稚園の頃の記憶はあまりないですが、徒歩通園であったため、とにかく自宅と園の往復が大変だったことを覚えています。
02
小学校時代(市原市立辰巳台西小学校)
小学校1、2年生のときは、とにかく身体が弱く、学校の大半を休んでいました。小学校3年生のときに自宅ポストに入っていたチラシをきっかけに、地元の少年野球チーム(旧:市原リトルメッツ)に入って野球を始めました。この頃から身体も強くなって、学校を休む回数も劇的に減りました。
当時にしては珍しく両親は共働きで、いわゆる「鍵っ子」でしたが、母の帰宅時間が遅いのをいいことに、放課後はテレビゲーム(実況パワフルプロ野球)ばかりして過ごしていました。今でも野球や野球ゲームにはまり続けていることからすると、1つのことに熱中できる性格はこの頃から変わらないように思います。
学校生活では人前に出ることの苦手意識も特になく、クラスの委員長や高学年になると生徒会の副会長を務めたりしていました。前に出ることが好きという訳ではないのですが、委員長や生徒会の候補者を募るときの沈黙の時間(立候補者がなかなか出ずにクラスが静かになっている時間)がたまらなく無駄に思えて嫌だったので、クラスの中で希望者が誰もいないようであれば、率先して立候補していたことを覚えています。
小学校1、2年生のときは、とにかく身体が弱く、学校の大半を休んでいました。小学校3年生のときに自宅ポストに入っていたチラシをきっかけに、地元の少年野球チーム(旧:市原リトルメッツ)に入って野球を始めました。この頃から身体も強くなって、学校を休む回数も劇的に減りました。
当時にしては珍しく両親は共働きで、いわゆる「鍵っ子」でしたが、母の帰宅時間が遅いのをいいことに、放課後はテレビゲーム(実況パワフルプロ野球)ばかりしていました。今でも野球や野球ゲームが好きなことからすると、1つのことに熱中できる性格はこの頃から変わらないと思います。
学校生活では人前への苦手意識も特になく、クラスの委員長や高学年になると生徒会の副会長を務めていました。前に出ることが好きな訳ではないですが、委員長や生徒会の候補者を募るときの沈黙の時間(立候補者がなかなか出ずにクラスが静かになっている時間)がたまらなく無駄に思えて嫌だったので、クラスの中で希望者が誰もいないようであれば、率先して立候補していたことを覚えています。
03
中学校時代(市原市立辰巳台中学校)
辰巳台西小学校、辰巳台東小学校、白幡小学校と地域3校の生徒が進学する中学校であったため、生徒の数も非常に多かったです(1クラス約35名が7クラスでした)。生徒数が多いこともあり、クラスメイトも多種多様でした。生まれながらに1人1人の生活環境が異なることを強く意識したのはこの時期だったと思います。
学校生活では、軟式野球部で部活動に熱中していました。自転車等で同一市内の他校へ練習試合に行ったり、市選抜チームではキャプテンを務めるなど、他校と接する機会も多く、ひとくちに市原市といっても非常に広範で、様々な地域があることを知りました。
3年生となる時期に、私と母には一切の相談なく、父と妹の一存で、千葉市へ転居することになったのですが、転校を強く渋った私は、公立中学では珍しく、最後の1年間が電車通学でした。最寄り駅からちはら台駅まで電車で移動し、ちはら台駅から学校まで徒歩で通ったことも、今となっては良い思い出です。
辰巳台西小学校、辰巳台東小学校、白幡小学校と地域3校の生徒が進学する中学校であったため、生徒の数も非常に多かったです(1クラス約35名が7クラスでした)。クラスメイトも多種多様で、生まれながらに1人1人の生活環境が異なることを強く意識したのはこの時期だったと思います。
学校生活では、軟式野球部で部活動に熱中していました。自転車等で同一市内の他校へ練習試合に行ったり、市選抜チームではキャプテンを務めるなど、他校と接する機会も多く、市原市は非常に広範で、様々な地域があることを知りました。
3年生となる時期に、私と母には一切の相談なく、父と妹の一存で、千葉市へ転居したのですが、転校を強く渋った私は、公立中学では珍しく、最後の1年間が電車通学でした。最寄り駅からちはら台駅まで電車で移動し、ちはら台駅から学校まで徒歩で通ったことも、今となっては良い思い出です。
04
高校時代(志学館高等部)
学業と部活動の両立を目指して、高校は木更津市の志学館高等部へ進学しました。部活動は入学前年度に夏の県大会で準優勝という結果もあって、入部希望者が多く、同期は50名ほどでした。高校3年間は野球中心の生活でしたが、司法試験を含めて、後にも先にもこれほど大変な思いをしたことはなく、私の人生の土台です。
学業は、通学時間や授業時間を活用してコツコツ勉強を重ねました。大学へ進学をするのであれば明確な目標をもって大学生活を過ごしたかったこと、時代的にリストラが社会問題となっており手に職をつけた仕事をしたかったこと、社会のルールに強くなることは私自身や周囲の人間にとって役に立つと思ったこと、法曹人口の増員を目指して司法試験が合格しやすくなったこと等から、法学部に入って弁護士となることを目指しました。
学業と部活動の両立を目指して、高校は木更津市の志学館高等部へ進学しました。部活動は入学前年度に夏の県大会で準優勝という結果もあって、入部希望者が多く、同期は50名ほどでした。高校3年間は野球中心の生活でしたが、司法試験を含めて、後にも先にもこれほど大変な思いをしたことはなく、私の人生の土台であることは間違いないです。
学業は、通学時間や授業時間を活用してコツコツ勉強を重ねました。大学へ進学をするのであれば明確な目標をもって大学生活を過ごしたかったこと、時代的にリストラが社会問題となっており手に職をつけた仕事をしたかったこと、社会のルールに強くなることは私自身や周囲の人間にとって役に立つと思ったこと、法曹人口の増員を目指して司法試験が合格しやすくなったこと等から、法学部に入って弁護士となることを目指しました。
05
大学時代(早稲田大学法学部)
国立大学への進学を目指していましたが力及ばず、1浪の末、縁あって早稲田大学法学部へ進学することができました。司法試験に合格するという明確な目標があったため、大学の授業はそこそこに、学業は司法試験予備校を中心に取り組んでいました。
学業以外では、法曹関係の友人は法科大学院に進学すれば必然的に作れると考えて、他学部の友人を作りたいと思い、野球サークルに所属して活動しました。また、アルバイトも毎年扶養ギリギリの範囲内まで働きました。サークル活動やアルバイトを通じて、学業のみでは獲得できない経験を数多く得ることができました。
国立大学への進学を目指しましたが力及ばず、1浪の末、縁あって早稲田大学法学部へ進学することができました。司法試験に合格するという明確な目標があったため、大学の授業はそこそこに、学業は司法試験予備校を中心に取り組みました。
学業以外では、法曹関係の友人は法科大学院に進学すれば必然的に作れると考えて、他学部の友人を作りたいと思い、野球サークルで活動しました。アルバイトも毎年扶養ギリギリまで働きました。サークル活動やアルバイトを通じて、学業のみでは獲得できない経験を数多く得ることができました。
06
大学院時代(千葉大学法科大学院)
千葉市の自宅から非常に近く学習時間が確保しやすい環境であったこと、司法試験の合格実績も豊富であったこと等から、第1志望としていた千葉大学法科大学院へ進学することができました。大学院時代は、勤勉な同期たちと切磋琢磨して勉学に励み、2回目の受験で司法試験に合格することができました。
千葉市の自宅から非常に近く学習時間が確保しやすかったこと、司法試験の合格実績も豊富であったこと等から、第1志望としていた千葉大学法科大学院へ進学することができました。大学院時代は、勤勉な同期たちと切磋琢磨して勉学に励み、2回目の受験で司法試験に合格することができました。
07
社会人から現在に至るまで
専門性を持った仕事をしたい、困っている人を助けるという素直な気持ちを大切にしたいという想いから、都内の法律事務所にて、交通事故の被害者側の事件を専門とする弁護士として活動をスタートしました。その後、地元の千葉へ転居するタイミングで、千葉・市原を含めた県内の人々へ持てる力で恩返しをするという気持ちを胸に、交通事故の被害者側の事件に専門特化した法律事務所を独立開業しました。大変ありがたいことに、県内のみならず、全国からもご相談・ご依頼をいただき、現在に至っています(画像をクリックすると外部リンクに繋がります)。
専門性を持った仕事をしたい、困っている人を助けるという素直な気持ちを大切にしたいとの想いから、都内の法律事務所で、交通事故の被害者側の事件を専門とする弁護士として活動を開始しました。その後、地元の千葉へ転居するタイミングで、千葉・市原を含めた県内の人々へ持てる力で恩返しをするという気持ちを胸に、交通事故の被害者側の事件に専門特化した法律事務所を開業しました。大変ありがたいことに、県内のみならず、全国からもご相談・ご依頼をいただき、現在に至っています(画像をタップすると外部リンクに繋がります)。
08
政治への興味・関心と兼業政治家としての活動に至るまで
政治への興味・関心と兼業政治家としての活動を開始するに至るまで
私が生まれた日本という国の国政・市政がどのように経営・運営されているのかということは幼少期から本能的に興味がありました。「鍵っ子」だったこともあり、テレビを見ている時間も長く、特に、夕方に流れるニュース番組は、幼少期の私にとって常に身近な存在であったことが影響しているのかもしれません。
現在の政治に限らず、過去を振り返ってみても、私は日本で生活する1人の国民・市民として、日本の国政・市政が最適に経営・運営されているか疑問に感じることが少なからずありました。“制度に文句や不満があるのであれば、制度を作る側にまわりなさい”…私の人生においてずっと心に響く大切な言葉です。この言葉を文字どおりのものとする時のために、“兼業政治家”として発信を始めるに至りました。
私が生まれた日本という国がどのように経営・運営されているのかということは、幼少期から興味がありました。「鍵っ子」だったこともあり、テレビを見ている時間も長く、特に、夕方に流れるニュース番組は、幼少期の私にとって常に身近な存在であったことが影響しているのかもしれません。
現在の政治に限らず、過去を振り返っても、私は日本で生活する1人の国民・市民として、日本の国政・市政が最適に経営・運営されているか疑問に感じることが少なからずありました。“制度に文句や不満があるのであれば、制度を作る側にまわりなさい”…私の人生においてずっと心に響く大切な言葉です。この言葉を文字どおりとする時のために、“兼業政治家”として活動を始めるに至りました。
09
【初選挙】第50回衆議院議員選挙へ出馬するに至った理由など
2024年9月末に政治活動を開始したばかりでしたが、千葉・市原の“みなさま”にとっての有意義な選択肢となるべく、迷わず立候補を決めました(【所信表明演説!!】)。
結果的には、2024年10月27日投開票の初選挙において千葉3区(千葉市緑区・市原市)の方々から、2万2717票(得票率13.8%)の信託をいただくことができました。
街頭演説・駅前演説を一切実施せずに、選挙ポスター・選挙ビラ・選挙公報・ホームページ・ブログのみからの発信という異例の選挙スタイルでしたが、多くの有権者の方々から支持を受けられたことは、兼業政治家として活動する今後の励みとなりました。
少子高齢化に伴う労働者人口の減少という社会問題を解決するにあたって、業務効率化は、今後しばらく求められる重要なテーマであると考えています。
インターネットの利益はご年配の方々ほど効果を実感できるはずです。今回の選挙スタイルが浸透するように、今後も持続的・継続的に活動して行きたいと思います。